記録者



 容赦無い陽射が彼を焼いている。蝉の声が周囲の雑音を掻き消し、半ば朦朧
としてきた意識を現実から引き剥がしてゆく。熱せられた道路の上を踊る陽炎、
逃げ水。全ては彼を嘲笑うかのように揺らめき、彼は無駄とは知りつつも、絶
え間無く流れ落ちてくる汗を拭った。家を出る時に羽織っていた夏物の背広は、
今は彼の腕の中で熱気を蓄えていた。
 白いシャツは身体に張り付き、下着の形をくっきりと浮かび上がらせている。
熱気を掻き廻すだけの扇子を振り、彼は帽子を忘れてしまった事を心の底から
後悔した。
 近頃舗装されたばかりの地面は熱を緩和する所か吸収し、靴が溶けてしまい
そうだった。アスファルトは恨めしい陽光を照り返し、黒々とした身体を横た
えるばかりである。銃後間も無くはここも土を固めただけの地面だったのだろ
うが、今は最早その面影を微塵も留めていない。自動車の乗り心地が悪かろう
と水捌けが悪かろうと、この暑さに比べれば土の地面の方が幾分増しだったか
もしれない。
 彼は路に迷っていた。汗を拭い、足許の影に眼を落とすと、自身の黒々とし
た影はほぼ彼の真下に在った。正午だとしても、既に目的地に着いていても可
笑しくない時間である。見知った路であった筈なのだが、気付いた時には最早、
其処は異郷であった。
 彼は汗を拭った。もう幾度拭ったとも知れぬ。汗は不毛なまでに止めど無く、
或いは何時倒れても可笑しくない状況であったのかもしれない。騒がしい蝉の
喚き声が遠ざかってゆく。
 歩けば歩く程、人通りは少なくなってくるようであった。この炎天下に歩い
ている人間自体が少ないのだが、暫く歩くと、眼を凝らしても振り向いても、
彼の他に人影は居なくなっていた。後は只眩いばかりの太陽が彼を見下ろすだ
けである。
 彼は流石に危険を感じ、日影を探して辺りを見廻した。すると丁度良い塩梅
に路地がある。人が一人漸く通れる程の狭いものであったが、彼は迷わず其処
へ入った。
 途端、頭上から太陽が消え、路地裏特有の湿った空気が彼の周りを埋め尽く
した。蝉の声はもう何処か遠くへ消え失せ、あれ程までに彼を苛んでいた熱気
は別世界の出来事であったかのように、跡形も無く消滅した。彼は冷たい壁に
寄り掛かり、汗を拭った。鏡でもあれば、全身から湯気を立ち昇らせる己が姿
を見る事が出来たであろう。
 何処だろうここは――彼は眼を瞑った。家を出てから、少なく見積もっても
三時間は経過している。目的地は自宅から一時間半も歩けば着く距離に在る。
一体如何したと言うのだろう、今日に限って。或いは暑さの所為なのかもしれ
なかったが、定かではない。
 不意に、彼は歯車が軋むような音を聞いたような気がし、狭い路地裏を見遣っ
た。少なくとも道路側、ではない。其処には相変わらず陽光を照り返す地面と、
煉獄のような熱気が在るばかりである。路地の奥には――鉄扉が在った。じめ
じめとした黴臭い路地裏には場違いな、錆一つ浮いていない、無機的な鉄扉。
空襲にも耐え得りそうな外見を見て、彼は一瞬、未だに軍の施設が残っていた
のかと驚いたが、それは直ぐに打ち消された。幾ら復興してきたとは言え、こ
こら一帯は一面焼け野原であった筈だ。そんなものが在れば進駐軍の眼に留ま
らぬ筈も無いし、第一、間も無く銃後十年を迎えると言うのにそのような考え
を持って地下に潜む連中が居るとは、彼には到底考えられなかった。現実味が
無い。
 とは言え――『それ』に対し如何ともし難い好奇心に駆られるのも事実であ
る。彼はゆっくりと鉄扉に近付いていった。それは近付く程に奇妙さを増して
いった。錆一つ浮いていない所か、磨き上げられて、それ自体がまるで鏡のよ
うに彼の痩身を映し出している。あたかも銃剣に己の顔を映した時のような鈍
い煌きに、彼は思わず後退るも、唾を呑んで観察を続けた。
 扉に抉ったような取っ手を見る限り、それは両側へ開く引き戸であるようだっ
たが、扉一枚が丁度人の肩幅程あるそれが左右に開くにしては、路地は狭過ぎ
るし、開く為には両側の建物の壁を突き破る必要があるように思われた。彼は
再び唾を呑み下し、取っ手に手を掛けた。鍵穴は無く、又南京錠を止めるよう
な場所も無い。全くの平面である。内側からしか施錠出来ないのなら別だが、
鍵は、かかっていないように覗える。
 手に力を込めると、重そうな鉄扉は存外容易に開いた。狼狽して扉が動いた
方向を見ると、建物の壁には扉一枚が漸く入るだけの隙間が設けられている。
最初に見た時には気付かなかったのだろうか。そんな問も、直ぐに消え失せる。
扉は開き切っていた。
 彼は恐る恐る、と言った体で残る片側の扉も開け、突如として路地裏に出現
した、洞窟じみた入口に、そっと足を踏み入れた。
 その中は、長い長い通路になっていた。否、回廊と言った方が正しかったの
かもしれない。天井の高さは杳として掴めない。暗過ぎるのだ。灯りと言えば
煉瓦の壁に設置された、見た事も無い白い光を放つ照明だけである。それらの
照明は両側の壁に数え切れぬ程に在る戸の一つ一つに付いており、下のみを照
らす為に被せられた金属製の覆いは、空襲時に明りを洩らさぬ為に裸電球に被
せる覆いを連想させた。入口とは違い木製の戸には、アルファベットを刻んだ
金色の板が嵌め込まれていた。入口に一番近い戸には『ZAMBIA』、下段には
『THE REPUBLIC OF ZAMBIA』と丁寧な彫金を施されている。次の戸には『ZAIRE』、
その次には『YUGOSLAVIA』。如何やら、国名が記されているらしい。彼が入っ
て来たのは、出口なのかもしれない。其処はアルファベット順にした国名の末
尾に当たる場所、即ち最後尾なのである。彼は『ZAMBIA』の戸の取っ手を握り、
廻そうと試みたものの、施錠されているようで、戸は揺らぎもしなかった。
 このまま進んで行けば『A』――『入口』に辿り付くのであろうか。彼は次の
一歩を踏み出した。

 何処からか機械音が聞こえてくる。歯車が廻る音、金属同士が擦り合わされ
て奏でる、軋むような音。見えない天井は相当に高いらしく、音は回廊中を反
響して震え、彼を突き抜けていった。何かが移動する――否、運ばれて行く音
が縦横に通り抜ける。それらは如何やら其々の部屋の中から聞こえてくるよう
で、鉄戸に触れると音叉の如き震動が伝わってきた。彼には、世界中が震動し
ているように思えた。
 それと共に吹き抜ける涼やかな風に、彼は思わず身を震わせた。
 そしてもう一歩を踏み出す。乾いた床は靴が触れる度に甲高い音を立て、刹
那機械音を打ち消す。靴音は一定の間隔で耳を擽り、猛獣の唸りにも似た機械
音は止む事も無く回廊を揺らし続けていた。
 回廊は延々続いてゆき、アルファベットは段々と遡っていった。殆ど変わり
映えもしない光景ばかりが彼の横を通り過ぎて行く。仄暗い路、無機的な白い
光、冷たい床、吹き抜ける風、機械音、扉、扉、扉――
 その先に在ったのは又しても扉であった。今までとは違う、どちらかと言え
ば最初の扉に近い、鉄製の大扉。それも又引き戸であり、それの斜向かいの扉
には『AFGHANISTAN』の文字。ここが突き当たりであるようだった。扉の金属板
には『CONTROL ROOM』と彫られている。彼は扉の金属製の取っ手に手を掛けた。
 余り頻繁に開かれないらしく、その扉は酷く重く、ギシギシと軋みながら壁
へ吸い込まれていった。
 外の熱気から直接入ったのであれば、思わず蹲ってしまいそうな冷気が彼を
撫でた。幸い今までの回廊は殆ど肌寒い程であり、其処を通って来た者ならば
少々の身震い程度で済ませられるだろう。彼も又然り、小さく身震いをし、手
にしていた背広を羽織り直した。
 その部屋は、何処からか不自然な雰囲気を漂わせていた。或いは違和感、と
言うのかもしれない。それは突然落下傘か何かで異国に放り出されたような感
覚であった。
 機械音は回廊で聞いたものよりも桁違いに大きく、何時か聞いた印刷所のそ
れに近くなっている。左右には棚が天井高く聳えたっており、金属製の棚には
移動に使われると思しき溝が何本か走っている。それには何十段かの仕切があ
り、其々数百枚単位で何か板のようなものが収納されていた。棚の下に当たる
部分の床には回廊にあったものと同じ、白色の照明があり、棚を照らし上げて
いた。棚の側面の壁には棚と殆ど同じ大きさの穴が穿たれており、棚は其処へ
格納、或いは移動出来るようである。
 部屋の奥、左右の棚の裏側には印刷機のようなものが並んでおり、先程の板
はそれを通されてから棚に収納されるようだった。
 そして印刷機らしきものの更に奥には、頑丈そうな鉄製と思しき箱のような
ものが在った。それには本体と同じく頑丈そうな鉄の扉が付いており、閂のよ
うなもので固く鎖されていた。その上部には煙突に似た円柱状のものが伸びて
いる。如何やら、小型の溶鉱炉のようなものであるらしい。火が入れられてい
ない訳ではないらしく、扉の上の耐熱硝子からは紅い光が漏れているのだが、
熱気は全く伝わって来ない。
 部屋の突き当たりには一つの影が在った。否、居た、と言った方が正しかっ
たかもしれない。机に就くような格好の人影が、他の白い光とは違う、蒼白い
照明に当てられ、さながら幽霊のように薄暗がりに浮かび上がっていた。
「おや、珍しい。御客さんだね」
 影は言った。
 彼はその声に誘われるように近付いて行った。部屋自体は然程大きくは無い
ように見受けられるのだが、影までの距離は異様に長かった。轟々と底に響く
ような機械音を全身に浴びながら、整然と並んだ棚の間を歩いていると、その
単調な光景が何処までも続いているような錯覚を覚える。机には中々近付く事
が出来ない。彼は先刻の逃げ水を思い出していたが、それらは酷く遠い過去の
出来事のように思えてならなかった。
 駆け出したくなる衝動を必死の思いで堪え、漸く影の許へ辿り付くと、彼は
息を呑んだ。影の男が座る机は、少なくとも彼には、この世ならぬモノのよう
に思われたのだ。
 机の上には丁度弁当箱程の大きさの画面を持った、つい先頃本放送が開始さ
れたばかりのテレヴィジョンが数十個並べられていたのだ――遠目に照明と思
われたのは、恐らくこれであろう――それも、彼が街頭放送で見たようなもの
ではなく、厚さも紙より少し厚いくらいしかない代物である。それには見慣れ
た日本の光景や、戦地であった南方の風景、はたまた少し前までは敵国であっ
た亜米利加や、見た事も無いような外国の都市の光景が映っていた。それらは
白黒の不鮮明な映像ではなく、自然のままの色が付いた明瞭な映像であった。
 それだけではない。机の上には又、無数の釦が設置されていた。釦の大きさ
や形、素材は不揃で、立方体のものもあれば直方体のものもあり、円柱がある
かと思えば球体があった。大きさも爪の先程の小さなものから握り拳大のもの
まで。材質も鉄製から木製、何かの骨で作ったものと様々である。それらには
其々文字が刻印してあり、その文字にしても、見なれた平仮名やら、アルファ
ベット、漢字、ハングル、亜剌比亜文字や何処かの象形文字などと統一感と言っ
たものがまるで無い。配列にしても又同様で、整然と並んでいるかと思えば滅
茶苦茶に置かれていたりもする。影の男は画面を見ながら幾つかの釦を押したり、
廻したりと、彼には理解しかねる複雑な作業をしていた。
 男は不意に顔を上げた。その顔はレンズや何かの機械などで覆われており、
肌が露出している部分が殆ど無かった。
「私は、記録者だ」
 男は呟くように言った。眼の辺りに装着されたレンズがピントを合わせるよ
うに二度三度、廻る。男は幾つか釦を押すと、画面の一つを指差した。彼は釣
られて画面を見て、あッと小さく叫んだ。それには、椅子に座った男の後ろに
立って画面を覗き込む彼自身の後姿が映っていた。彼は反射的に振り返ってカ
メラを探したが、それと思しきものは見付けられなかった。
「何千何万分の一秒を、君の瞬きの狭間を、全てを、記録している」
 男は顔の機械に触れると作業を再開したが、降り注ぐ機械音とは無関係な作
業をしているようで、男が作業を中断している間も棚は引っ切り無しに動いて
いたし、歯車の廻る軋んだような音は鳴り止む事を知らなかった。
「見てみるか。ここに在るのは世界。世界の現在だ。一番近い過去達だよ」
 彼は言われるがままに、机から一番近い距離に在る棚に歩み寄った。その棚
には『SAHARA』と刻印されていた。彼は棚に収納された板の一つに手を伸ばし
た。
 それは、硝子のように覗えた。爪先程の厚さの、硝子板。そっと抜き出すと、
それは滑るように彼の手の中に入って来た。一瞬、彼はそれが何だか分からな
かったが、暫くすると漸く、それが何であるかが分かった。それは、写真であっ
た。広大な砂漠の一部の『瞬間』を切り取ったものであった。舞い散る砂に霞
む蒼穹、崩れては又降り積もる砂山、風が作る模様、風紋。只只管砂だけの世
界が、一枚の硝子板に閉じ込められている。
 彼は茫然と立ち竦んでいると、男は言った。
「もっと見たいかね。ならば倉庫へ行くが良い。鍵は――」
 男は釦の一つを押した。
「今、外した」
 躊躇いながらも鉄扉に向かって歩き出した彼に向かって、男は続けた。
「但し、自分は見るなよ」

 彼は重い鉄扉を開け、歩き出した。何を見たいかは決まっていないが、同様
に特に見たい場所がある訳でもない。彼は通り過ぎて行く国名を横目に見なが
ら、とうとう十番目のアルファベットまで来てしまった。『J』の二番目は、
『神の国』だのと自称していた国、彼や彼の戦友達がそれの為に戦わされ殺さ
れた国である。『JAPAN』。彼は戸を開けた。
 其処は膨大な『棚』の倉庫であった。見上げても頂上が見えない程に積み上
げられた棚は、上だけではなく横にも並べられており、平面的に並べられたも
のだけでも数え切れぬ程の量だった。照明は例によって白い無機的な灯りであり、
それも重ねられた二段目以降の棚を照らす事は能わなかった。
 薄暗い書庫、とでも形容すべきだろうか。尤も倉庫などと言うものはどれも
こんなものなのかもしれない。
 入口近くの棚の端から硝子板を抜き出すと、其処には何も写っていなかった。
だが全く透明な硝子と言う訳でもなく、何やら靄のようなものが一面を覆って
いるようだった。眼を凝らすと、彼はそれが水中である事に気付いた。それは、
或いは原初の生命を写したものなのかもしれなかった。
 何十か先の棚から硝子板を抜くと、其処には爬虫類めいた生物が写っていた。
水面から顔を出したそれは、如何やら恐龍の仲間であるようだった。彼は、こ
れもあの男が『記録』したものなのだろうかと思ったが、直ぐに次の硝子を抜
きにかかり、そのような考えは何処かへ消し飛んでしまった。
 そして又何十か先の棚の板を見ると、今度は哺乳類のような、河馬と象を混
ぜたような姿の動物が水辺を歩いている姿が写っていたが、彼にその生物の名
前は分からなかった。
 そうして、彼は次の棚次の棚、と、飛ばし飛ばし時代を進んでいった。入口
から何百個目かの棚で、彼は漸く文明の欠片を見付けた。服を着た人間が歩い
ている。
 彼は刻印によって何世紀かを特定する事を覚え、一気に二十世紀まで進む事
にした。棚の刻印に気を配りながら暗がりを駆ける。その顔は期待と、子供の
ような興奮に満ちていた。疑いを知らぬ顔。
 『1901~』と刻印された、今の所一番最後である所の棚の前で立ち止まり、
彼は見た。極個人的な光景から、公の光景、何処かの口角泡を飛ばす会議の様
子から、誰かが靴を履く瞬間。明治末期の日本の光景が其処に在った。その棚――
に限らず他の棚にも言える事だが――には無数の硝子板が収納されていたが、
如何やらそれは明治末期までしか無いようであった。恐らくこの棚の裏に並ぶ
大量の棚には同じ時代の『記録』が並べられているのだろう。
 彼は飽き足らずに、それ以降も見たくなった。これ以上横に進められないと
なると――彼は面を上げて上を見上げた。登って登れない事も無いだろうが、
それには棚の中身を出す必要があるし、二段目以降は棚から出しても置く所が
無い。引っ掛かりの少ない設計は移動を考えて造られたものなのだろうが、彼
は少し恨めしそうに棚を見つめ、それから辺りを見廻した。
 目当ての物は直ぐに見付かった。梯子である。棚の側面に当たる場所に設置
されたそれは、何処まであるかも分からない天井と冷たい床に刻まれた溝に沿っ
て動くらしく、彼はそれを棚の前まで動かした。相当に重いものなのだろうと
踏んでいたのだが、存外にそれは滑らかに、軽く動いた。床には梯子を固定す
る為の穴も穿たれていたが、彼は敢えて固定しなかった。一歩一歩確かめなが
ら梯子を攀じ登る。
 積み上げられたように見えたそれは、天井から吊るされているようだった。
張り詰めた鎖が側面を走っている。彼が二段目の棚まで登ると、何処からか照
明が当たった。
 慎重に硝子板を抜き出すと、其処には既に大正に入った日本が写し出されて
いた。彼の記憶にある暗褐色の写真などではなく、今までと同じ鮮明な画像で
ある。それらは日英同盟と国際的地位の向上を口実に第一次世界大戦に便乗し
た日本の大戦景気、所謂『成金』などが写されており、幾つか風刺画も写り込
んでいた。無論戦勝に沸く大衆や、貧窮を極めたような農民の日常、明確な貧
富の差なども正確に写し出していた。
 彼は彼自身悪夢を味わった太平洋戦争の棚を飛ばして更に登り続け、見慣れ
た年代の棚――頂上に、辿り付いた。最早下方は白い照明がぼんやりと覗える
程度であり、天井は未だ窺い知れぬ高みであった。梯子を動かし、被写体を自
分の身近なものへと近付けて行く。関東、東京と、棚は徐々に彼へ近付いて来
た。
 今まで見た限りでは、同じ人物は散らばる事無く同じ列に収納されている筈
であった。自分の写された硝子板を一枚でも見付ければ、後は芋蔓式にその時
間区分の自分を見付ける事が出来る。自分の行動を客観する事が出来る。
 彼は棚を支えに梯子を移動させ、『自分』を探した。
 冷気は満遍無く巡っているらしく、一番上の棚も又例外では無かった。彼の
――棚の右側、入口の方向には未だ数え切れぬ程の棚が聳え立っているが、そ
の上も恐らくは同じようになっているのだろう。硝子の保存にに最適な温度に
なっているのだろうか。あの熱気の中を通って来た彼には肌寒ささえ感じられ
た。
 在った。
 彼は遂に自分の姿を見付けた。それは彼が背広の袖に腕を通している光景で
あった。今日の朝の出来事である。彼は何百枚か飛ばして少し下の段を見た。
何枚か抜き出しては戻し、抜き出しては戻す。自分の行動を客観で遡ると言う
のは些か奇妙な体験であったが、最初の戸惑いは直ぐに薄れていった。
 今、彼を駆り立てるのは狂騒であった――狂騒に駆られて、気の遠くなるよ
うな単調な作業を続ける。薄い硝子板を抜き出しては戻し、抜き出しては戻す。
彼はそれに視線を這わせては次へ視線を移した。最早何時間が経過したのかす
ら分からない。あの炎天下の路は、今は彼方の記憶である。現実味さえ感ぜら
れない。
 そして彼は、一枚の硝子板を抜きかけ、硬直したように手を止めた。薄い板
を抓む指先に力が入る。
 ゆっくりと、今までの単調な作業とは異なる、酷く緩慢な動きで、硝子板を
抜き出した。眼は確りと鎖されている。
 目蓋が震え、きつく瞑られた眼が開けられる。梯子を握る手に力が篭もり、
汗ばんだ手の平は金属のそれから滑り落ちてしまいそうであった。
 その硝子板には、彼自身の姿が『記録』されていた。血走った眼、振り乱し
た髪、喰い縛った歯、その形相には何処か怯えのようなものが混じっていた。
腕は何かを捕えるかのように前方に突き出されている。
 彼の顔から血の気が引いてゆき、みるみる内に蒼褪めてゆく。
 それは、彼の殺人を克明に『記録』していた。
 彼の指に力が篭もり、薄い硝子板に亀裂が走り、抓んでいた部分を残して、
脆い硝子は『記録』と共に深淵へ落下していった。
 底の方から、特徴的な、硝子の割れる甲高い音が響いた。
 それらとほぼ同時に、彼の身体には大きな亀裂が走った。通常、凍ってでも
いない限りは人体に亀裂が走るなどと言う事は考えられない。だが確かに、彼
の身体には無数の罅割れが、亀裂が、縦横に走り抜けていた。
 そして下方から響く音と同時に、彼の身体は砕け散った。

 それから、何時間が経過したとも知れぬ。何処からか足音が響き、扉が軋み
ながら開いた。
「…………」
 カツン、と硬い靴底が床に当たる音がして、扉から洩れる薄明かりに照らし
出された人影が、『倉庫』に入った。人影は微塵の焦りも感じさせない、それ
所か余裕すらも感じさせる歩調で棚の谷間を進んで行く。
 人影は一番奥の棚で立ち止まった。床には粉々に砕け散った硝子片が散らばっ
ている。
「見たのか」
 影はそれを拾い上げようと屈んだが、レンズの眼を撫でると、直ぐに立ち上
がった。
「まァ良いさ、私の責ではない」
 男は踵を返し、元の部屋へ戻った。
 男は机の抽斗を開けた。中には机の表面と同じく無数の釦が混沌と並べられ
ている。男はその中から『個体番号』と漢字で刻印が打たれた釦と、『JPN』
と刻まれた釦を選び、押した。するとその釦のやや上に設置された小さな画面
に、紅い文字で亜剌比亜数字の零が表示された。男が低い円柱状の釦を廻すと
画面に表示された数字が増えてゆき、数字は八桁で止まった。男は次に『EPOCHE』
と記された金属製の釦を押した。同時に先程の画面が零に戻り、同じく先程の
円柱を廻すと数字が増え、今度は四桁で止める。男は手前にある釦を押し、再
び円柱を廻して別の四桁の数字に合わせた。
 そして最後に『BLANK』と彫られた大きな鉛の釦を押すと、今まで鳴っていた
機械音に別の新しい機械音が混ざった。暫くすると幾つかの棚が運ばれて来、
男の直ぐ横で停まった。男は『確認』と記された正六角形の釦を深く押し込ん
だ。棚はそのまま移動してゆき、『再処理』と言う札の掛かった溶鉱炉の前に
停まった。ほぼ同時に溶鉱炉の重い鉄扉が開き、傾いた棚は収納していた硝子
板を何百枚かその中へ落とし込んだ。棚は太い鎖に引き上げられて天井高くへ
消えて行き、代わりに別の棚が進み、同じように硝子板を落とした。その単調
な作業は未だ暫く続くようであった。
 男は溶鉱炉の炎にレンズの眼を紅く煌かせて歯車の廻る音を聞いていたが、
やがて小さく溜息を吐き、椅子に腰を下ろした。





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